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「ムーミン先生の世界地図」

2009年7月08日

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私が高校2年生の時です。
 担任の先生は、穏やかな英語の先生でした。その風貌から、愛着を込めて「ムーミン」と呼ばれていました。ムーミン先生のご趣味は海外旅行でした。休暇とみるといろいろな国を旅行していて、御自宅の居間の壁には巨大な世界地図が貼ってあって、これまで訪れた国全てに赤い画鋲が留めてあるという噂でした。そして定年を間近に控えた今現在、すでに粗方の国は制覇してしまい、画鋲がついていない国は残すところ、数えるしかないと。

 憧れました。私もいつか同じように海外を飛び回ってみたいものだと思っていました。FMの深夜放送で、「ジェットストリーム」の城達也の哀愁漂うナビゲーションを聴きながら、その気になったものでした。さすがに世界地図を部屋に貼ったりはしませんでしたが。

 最近、ふとムーミン先生のことを思い出しました。社会に出てからすでに10年以上になりますが、これまで足を踏み入れた国は学会などでアメリカに数回立ち寄ったくらいで、海外旅行とは全く縁のない生活です。どこかに眠っているはずのパスポートは、有効期限を過ぎてしまっていないかどうかも定かではありません。

 このままではムーミン先生の足元にも及びません。それで思いついて作ってみたのが上の日本地図です。

「世界旅行は無理だったので、せめ国内旅行で行ってみた県です」、と言いたいところですが、残念ながら違います。矢崎病院でこれまで腹腔鏡手術を受けられた患者さまの居住県を調べてみて、白地図に色を塗ってみました。
 作ってみると、北は青森県から南は沖縄県まで随分遠方からもいらしているんだなぁ、と改めて驚きました。矢崎病院は30床足らずの小規模病院ですが、我々職員にとっては、これ以上の名誉は無く、本当に誇りに思います。

 わざわざ県外から手術を受けに来られる方が多いのは、病気の悩み、そして手術に対する恐怖心がいかに深刻か、を表しているのだと思います。

 腹腔鏡手術は、まだまだ普及していないとはいえ、決して特別な治療方法ではありません。器具さえあれば、誰にでもできる手技だと思います。確かに大学病院などからも、私の手術の見学に来られる先生もおられますが、私はブラックジャックのような特別な才能や能力など、到底持ち合わせておりません。神業で奇跡を起こすことは不可能です。自分にできることは唯一つ、日々の地道な鍛錬を怠らず、日々経験を積んでいくこと、だけだと思っています。

 日本では、手術中にBGMとして音楽をかけることが一般化しています。手術室の隅には大抵CDラジカセが置いてあって、執刀医が思い思いの曲をかけながら手術を行います。私も、患者さんが手術室に入られた時には、恐怖心を少しでも取り除いてもらうために音楽をかけます。しかし、麻酔で眠られた後は、絶対に音楽を止めさせます。それは、麻酔で意識が無くなって、あとは運命を我々に委ねるしか無い、患者さんに対する最低限の礼儀だと思うからです。

 しかし、それでもこれだけたくさんの手術をしていると、その場だけに意識が集中してしまい、その患者さんが、どれくらい遠方から来ているか、手術までの日々をどれほどの不安の中で過ごされていたか、ということに思いが至らなくなりがちです。この地図はそんな慢心を諌めているようです。

 お気楽だった高校生活を懐かしみつつ、余興で作った日本地図ですが、これを眺めていると、患者さんの思いがひしひしと伝わってくるようです。そして、自分に課せられているものを自覚し、身が引き締まる思いがしてきます。

 仕事の息抜きのつもりでしたが、どうも完全に逆効果だったようです。

「ホタル」

2009年6月29日

箱根奥湯元に「天山」という日帰り温泉があります。仕事が早く終わったときなど、たまにここを訪れるのが、細やかな楽しみです。

 道がすいている時には1時間足らずで着いてしまいます。海を左手に見ながらの湘南のドライブも気持ちいいです。駐車場に着き、車を降り立つと、空気が違います。森の香りと、硫黄の匂いが混ざった何とも懐かしい感じで、深呼吸でもしたくなります。
 建物も鄙びた感じで、味があります。中に入ると、昔風のはっぴを着た物静かな受付係りの人が、上品な白壇のお香とともににこやかに出迎えてくれます。まるで「千と千尋の神隠し」の油屋にでも入り込んだような錯覚に陥ります。確かに、この空間だけ時間がゆったりと流れているような気がしてきます。

 先日、久しぶりにこの天山に行ってきました。

 出発したのが遅かったため、温泉に入る頃には、すでに真っ暗になってしまいました。番台に「ホタルが出ます」、という張り紙がしてあり、湯上りに行ってみることにしました。
 建物の裏のほうに回って、小さなくぐり戸を抜けてみると、暗闇の中で緑の光がいくつも点滅している幻想的な光景が広がっていました。ホタルを見るのはもちろん初めてではありませんでしたが、、こんなにたくさん光っているのはちょっと記憶にありませんでした。
 時間を忘れて見上げていると、1匹がフェンスを越えてゆらゆらとこちらに飛んできました。思わず両手を差し出してすくうようにすると、簡単に捕まえられてしまいました。おにぎりを握るようにした両掌の中で、ホタルがもぞもぞ動くたび、指と指の間から緑の光が点滅するのです。これには感激しました。
 いつの間にか、知らない子供たちが私の周りに集まってきていました。
 ちょっと古いですが、「火垂るの墓」の有名なシーンみたいでした。「蛍雪の功」という言葉がありますが、あながち大げさなことではないのかも知れません。

 話は飛んで・・・

 学生時代、大学のプログラムで日米医学生の交換留学の制度があり、1か月半ほどアメリカに滞在する機会がありました。その際、休日を利用して、ワシントンDCを観光しました。薄暮に、リンカーン記念館の前の広大な公園の中を歩いていると、ホタルがちらほら飛んでいるのです。こんなところでホタルをみるなんて、となんだか嬉しくなって、道行く人に「この虫は英語で何という名前なのか?」と聞いてみました。相当怪しげな東洋人に見えたと思いますが、その人は「That’s lighting bug(光る虫)」とだけ答えてつまらなそうに、早足に行ってしまいました。見ていると私以外、誰一人として、ホタルに興味を示すような人はいませんでした。英語名もただ「光る虫」だなんて余りに風情がなさすぎるように思い、拍子抜けでした。

 ホタルの光の儚さが心の琴線に触れる、というのは、私たち日本人に特有の感覚なのかも知れません。これはまさに、「わび」、「さび」の世界です。
 この日、私は「ああ、俺は日本人なんだなー」と改めて実感することになり、そのことがまたとても嬉しいことでした。

 箱根「天山」には、「わび」「さび」が満ちています。その多くは作為的に作られたものかも知れませんが、やっぱり何か我々の心に響くものがあるように思います。皆様もぜひお試し下さい。先祖代々のDNAが呼び起こされるやもしれません。

「善意の裏道」

2009年6月10日

矢崎病院から湘南IVFクリニックに異動後も、手術は今まで通り矢崎病院で行っております。したがって、病院にも常に自分の担当の患者さんがいることになります。そのため、クリニックの診察業務が終了後に病院にほぼ毎日通っています。
 湘南IVFクリニックと矢崎病院は、直線距離にして5~6km、車で約15分足らずの距離です。開院の前には、それほど負担になることはないだろうと高をくくっていましたが、実際にやってみると、この移動時間が結構負担です。
いきおい、如何に往復の移動時間を少なくするか、ということに頭を使うことになります。

 要するに近道のことです。

 何度かタクシーに乗ってみて、運転手さんがどんな近道をしてくれるのか、研究してみました。そして、覚えたのが、今使っている裏道です。この裏道を使うようになって、片道5分、往復10分程度の時間短縮が図れるようになりました。また、渋滞も絶対にありません。すごく得した気分になります。
 ただ、この道路がすごく細いのです。小学校と中学校の間の裏道を通ったり、並木がせり出していたり。さらに直角のクランクがいくつかあります。すれ違うのは至難の業。
 この道路を無事クリアーするには、全てのドライバーが、譲り合い・助け合いの精神を発揮しなければいけません。すれ違いができるポイントは限られていて、そこで止まって対向車の通過待ちをしたり、サイドミラーを倒しながら進んだり、時にはどちらかがバックして譲り合うこともあります。そこに子供たちが登下校したりしていると、途端に難易度が上がります。子供たちを怖がらせないように、優しく、本当にそろりそろり運転しないといけません。
 そしてうまくすれ違えると、手をあげたり、クラクションをプッと鳴らしたりして、お互い、思い思いのお礼の仕方でやりとりします。

 この裏道が好きです。うまくすれ違えて、お礼の合図をされるとなんだか気持ちがいいものです。私は、この道路を勝手に「善意の裏道」と名付けています。

 善意や良心は伝染します。
 
 多分インフルエンザの感染力なんて目じゃありません。そしてその感染期間は相当長く、時には世代間に渡って引き継がれていきます。親切には親切を、善意には善意を返そうとするのは、人間の本能だと思います。逆もまた真なりで、悪意もまた伝播します。悪い仕打ちばかり受けている環境にいる人に、人並み以上の良心を要求するのは酷でしょう。社会が良くなるのも悪くなるのも、政治や制度の問題よりも、結局は一人一人の小さな心がけ次第なのかも知れません。

 こんなちっぽけなことからも、善意の輪が少しでも多く広がればいいなぁ、と勝手に思い描いています。
 
 もっとも、皆さん譲り合ってばかりいるので、近道の意味がほとんど無くなっているようにも思いますが。

「初めての手術」

2009年5月27日

大学病院で研修医を1年間勤めた後、初めて配属されたのは、K市立病院でした。
病床数700を超え、首都圏でも有数の病院です。大学病院での不毛な雑用地獄からようやく開
放され、初めて臨床の現場です。希望に燃えていました。

しかし、現実は甘くはなく、中々手術を任せて貰えず、ひたすら助手をやらされるのみで、私は焦燥感を募らせていました。

 半年ほど経った頃でしょうか。部長先生に呼ばれ、翌週に組まれている手術の執刀を指示されました。
私は胸が躍る思いでした。「やっとこの日が来た」と思いました。布団の中で、何度も何度もシュミレーションをしました。

 症例は卵巣のう腫。大した大きさでも無く、初心者にとっては最も適した症例と言えました。また、今のような腹腔鏡手術ではなく、開腹手術でしたので、長く見積もっても1
時間ほどで終了するような手術でした。

 手術当日。多少上ずった声で「それでは加刀します。」と、手術開始を初めて自分で宣言し、シュミレーション通り、皮膚を切除し、腹腔内に達しました。

 その瞬間、手術室全体に戦慄が走りました。

肉眼的にも明らかな卵巣癌だったのです。

しかも手がつけられないような播腫(癌細胞があちこちに散らばっている状態)でした。
 部長先生が替わって下さり、卵巣だけを切除して、閉腹(お腹の傷を縫合すること)しま
した。

 その後、私はその患者さん(Aさん)の担当医となることを命じられました。創部の快復を待って、抗癌剤治療が始まりました。しかし、ほとんど効果が出ずに、髪の毛が抜けたり、嘔吐に苦しんだりという副作用ばかりが強くなりました。2ヶ月ほどでがん細胞は全身に広がり、腸閉塞を起こして食事が取れなくなり、体はむくみ、癌特有の痛みが出てきました。

 どうすることもできませんでした。食事が取れないので、点滴を行い、そのうちに点滴を刺すところが無くなって来ると、麻酔をした上で、鎖骨のところに「中心静脈栄養」と言われる太い点滴を刺してまで、栄養補給をしました。

 Aさんは、本当に穏やかな人でした。まだ駆け出しの研修医である私を常に立ててくれて、治療に対する不安や不平など、決して口にしませんでした。
 そのうち、Aさんはベッドから起き上がることすらできなくなりました。それと同時に貧血が進行しました。私は「型の如く」輸血をすることにしました。まるで、テストで一対一対応の回答をするように。
 輸血の必要性などを説明するためにAさんのベッドに行ったときです。Aさんが静かに言いました。
 「私はもう、生きたいと思っていないから、治療は何もしないでもいいのよ。」

 今の医療現場では、患者さんに「癌」を告知しないことはほとんどありません。しかし、その「癌」がどのような状況で、治療の見通しがどれくらいあるのか、については、一概に言えない場合もあり、「一緒に頑張って行きましょう」というような曖昧な伝え方になる場合もあります。Aさんの場合も同じで、癌が完全に末期の状態になっているという現実は、伝えていませんでした。
 しかし、Aさんは全てを悟っておられたのです。にも関わらず、病気の進行を口にしない主治医の私に対して、それをおくびにも出さずにいたのでした。
 患者を気遣うべき立場にある医師が、ずっと患者さんに気遣ってもらっていたのです。

 結局、輸血は行いました。Aさんには「貧血があるのに、それに対して手をこまねいている訳には行かない。」などと一生懸命に説明したように思います。Aさんは穏やかに笑って聞いていました。

 その後、1ヶ月もしないうちにAさんは亡くなりました。

 Aさんが亡くなってから1ヶ月ほど経ったときのことです。その日は日曜日でしたが、研修医の私は病棟で仕事をしていました。そこにAさんの親戚の方が突然私に面会に来られました。私に渡したいものがあるというのです。

 それは封筒でした。
 中には1万円札が1枚入っていました。

 「これを先生に渡して欲しいというAさんの遺言だったから。」と言われました。

 私は年甲斐もなく、泣きました。ただただ、涙があふれてきました。
近くにいた看護師たちは相当訝しがったことと思いますが、どうすることもできませんでした。

 自分はAさんに何をしてあげられたのでしょう。
 最初は、自分の「デビュー戦」ともなるべき症例として、期待をかけました。
 その後、癌の痛みが出てきても、最初はモルヒネの使用量も躊躇していました。経験の浅さ故です。
末期癌の宣告をしなかったのは、本当にAさんの為だったのでしょうか?自分自身の心が弱いから、現実を直視することを無意識に避けたいと思っていただけではなかったのでしょうか。

 私は医師として、それ以前に1人の人間として、誠心誠意、Aさんと対峙していたのでしょうか。

 あれからちょうど10年が経ちました。
 この間、数多くの患者さんを看取ってきました。その中には、癌の患者さんも大勢います。

 医者は、どの国においても、またどの時代においても、社会的に一定以上の地位を与えられ、尊敬される職業の典型ではないかと思います。

 それは、何故か。医者が、常に「死」を見つめ続ける責務を負っているからではないかと思います。
 当たり前ですが、人は誰でも死にます。これだけは絶対普遍の真理であり、貴賎に関わらず平等なものです。しかし、その現実に直面する強さを持っている人は大変少ないと思います。我々は、日常生活において死を意識することはほとんどありません。しかし、医
療現場では別です。否応無しに死の現実に直面します。そして、医者は、この現実を直視し、正面から対峙してこそ、初めてその存在価値を発揮するのだと思います。

 不妊治療の世界に身をおいていると、死を実感することは殆どありません。
 だから、「死」という形で治療を終了せざるを得なかった患者さんたちのことを、常に意識するようにしています。そうすることによって、己の無力さを自覚し、ともすれば不遜になりがちな自分自身を戒め、謙虚にします。
 多分、私のことを天国から見ている患者さんがたくさんいるのでは無いかと思います。
 「田中先生はちゃんと仕事しているか、ヘマはやらかしてないか、立派な医者になったか」と。
そうして、私の一挙手一投足を監視してくれているのではないかと思います。
怠けていると、天国から雷(いかずち)でも降ってきそうです。

 Aさんの遺言の1万円は今でも大切にしまってあります。

「腹腔鏡手術トレーニングセンターに行って参りました」

2009年5月21日

H20年12月13・14日、ジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社のご協力をいただき、福島県須賀川市の同社工場内エチコンエンドサージェリー研究センターにて大動物(ブタ)を利用した腹腔鏡トレーニングを行いました。

 今回の研修は、矢崎病院に腹腔鏡手術の研修に来られている若い先生方のトレーニングを目的として開催いたしました。

 当日は、高江正道先生(聖マリアンナ医科大学)、石井博樹先生(東海大学)のほかに、矢崎病院手術部から、舟生浩子さん(手術室主任)、原井富貴子さんが参加されました。
 13日の夕方に東京駅で集合し、一路東北新幹線で郡山駅へ。エチコンエンドサージェリー研究センターは郡山駅より車で東へ約40分ほどのところに位置しております。郡山に到着したときには、それほど寒いとは思わなかったのですが、14日朝、宿泊所の窓から外を見たら、一面銀世界が広がっており、はるばる東北まで来たことを実感いたしました。

 午前中は、ブタの膀胱を卵巣嚢腫に見立て、腹腔鏡下卵巣嚢腫切除術のトレーニングを行いました。午後はブタの子宮を用いて(ブタには子宮が2つあります)、縫合のトレーニングを行ってもらいました。今回の研修のもう一つの目的として、日頃手術室の管理を御願いしている看護師さんたちにも実際の手術に触れていただくことがありました。そこで2名の看護師さんにかわるがわるスコープを持っていただき、モニター越しの立体感が無い2次元の世界を体験していただきました。

 私自身は今回で3回目の研修センターでした。実際にトレーニングを行う時間としては、昼食を挟んで、正味7時間ほどでしょうか。相当な長丁場のように思いますが、いつもながら時間はあっという間に過ぎて行き、誰もが時間いっぱいまで鉗子を離そうとせず、新幹線の時間ギリギリに郡山駅に滑り込む、というのもいつものパターンでした。

 今回の研修は生体を使ったトレーニングであります。ともすれば感覚が麻痺してしまいがちですが、我々の医療がこうした動物の犠牲の上に成り立っていることに、常に思いを致さなければなりません。各々がこの研修で何か手応えを実感できたのであれば幸いです。

 最後に、ご協力いただきましたジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社の川名様、金子様、麻酔を担当していただきました獣医師の先生方にこの場を借りて厚く御礼申し上げます。

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